築地・波除神社を参拝|大獅子と吉野家の碑、築地ホテル館の歴史

黒い顔と金色の巻き毛が特徴的な波除神社の厄除天井大獅子 東京

2026年10月26日、東京都中央区築地にある波除神社(波除稲荷神社)を約10年ぶりに参拝しました。

築地の守り神として知られる波除神社には、巨大な厄除天井大獅子とお歯黒獅子が祀られています。今回は、大獅子の周囲を左回りに歩き、清めの御鈴を鳴らして願い串を奉納しました。

境内には、すし塚や海老塚などの供養塚のほか、牛丼の吉野家ゆかりの記念碑や、明治初期の築地ホテル館を描いた錦絵もありました。二つの大獅子への参拝とともに、境内で知った築地の歴史を紹介します。


御神木の枝垂れ銀杏が迎える波除神社

鳥居の周囲には御神木の枝垂れ銀杏が枝を広げ、緑の葉が鳥居を覆うように垂れ下がっていました。鳥居の奥には社殿が見えます。

境内に入ると、外国人の参拝客が多いことに驚きました。築地場外市場は外国人観光客にも人気がありますが、この日は神社でも外国人の姿が目立ちました。

波除神社の創建は、江戸時代の万治2年(1659年)にさかのぼります。

当時、築地一帯では埋め立て工事が進められていましたが、築いた堤防が激しい波によって何度も壊され、工事は難航していました。

そんな折、海面に光を放ちながら漂う稲荷大神の御神体が見つかり、現在の場所に社殿を建てて祀ったところ、波風が静まり、工事が進むようになったと伝えられています。

これが波除神社の始まりとされ、以来、災難除けや厄除け、商売繁盛などの神様として信仰を集めてきました。

現在の社殿は昭和12年(1937年)に建てられたもので、伊勢神宮の外宮と同じ神明造です。

境内はそれほど広くありませんが、二つの大獅子をはじめ、供養塚や築地の歴史を伝える石碑、資料など、多くの見どころがあります。

厄除天井大獅子|左回りに一周して願い串を奉納

波除神社を代表する見どころのひとつが、獅子殿に安置された厄除天井大獅子です。

高さ2.4m、幅3.3m、重さ約1tという巨大な獅子頭で、黒い顔に金色の巻き毛や装飾が施されています。大きく開いた口には鋭い牙が並び、正面から見ると迫力があります。

江戸時代から厄除けや災難除けの象徴として信仰されてきた大獅子ですが、かつての獅子頭は江戸末期に焼失しました。

現在の大獅子は、平成2年(1990年)に神社の鎮座330年を記念して再興されたものです。

制作を手がけたのは、石川県旧鶴来町(現在の白山市)の獅子頭職人、二代目・知田清雲氏とその工房の職人たち。樹齢約3000年とされる黒檜(ねず)の原木を用いて制作されました。

獅子殿には、大獅子の周囲を左回りに一周できるという案内がありました。

実際に左回りに歩いてみると、正面からではわからない側面や裏側を見ることができました。裏側からは獅子の鼻の穴も確認でき、巨大な獅子頭の造りを間近で見ることができました。

また、獅子殿には「清めの御鈴」があり、大獅子につながる鈴を鳴らして参拝しました。

大獅子には、願い事を書いた「願い串」を奉納する習わしもあります。

願い串を獅子の舌の上にある納め籠に納めると、大獅子が願いをのみ込み、叶えてくださると伝えられています。今回、私も願い串を奉納しました。

奉納された願い串は、毎年12月に行われるお火焚祭でお焚き上げされるそうです。

お歯黒獅子|赤い顔と黒い歯を持つ雌の大獅子

厄除天井大獅子と対になるのが、摂社の弁財天社に安置されている雌の大獅子「お歯黒獅子」です。

こちらは高さ2.2m、両耳幅2.5m、重さ約700kg。鮮やかな赤い顔に金色の巻き毛が施され、口の中には黒い歯が並んでいます。

黒い厄除天井大獅子とは対照的な色彩で、表情も大きく異なります。

お歯黒獅子も、江戸時代に存在した獅子頭を再興したものです。平成14年(2002年)に、厄除天井大獅子と同じ知田清雲氏と加賀の職人たちによって制作されました。

総漆塗りの一木造りで、頭の宝珠には弁財天として信仰される市杵島姫命の御神像が納められています。

弁財天は芸能や習い事の上達、福徳などに関わる神様として信仰されています。

二つの大獅子は、どちらも巨大な木彫作品ですが、顔の色や歯、巻き毛などの違いを見比べるのも興味深いところです。

築地の食文化を伝える供養塚

波除神社の境内には、築地の食文化に関わる供養塚が数多く建立されています。

今回見て回ったのは、すし塚、海老塚、玉子塚、昆布塚です。

すし塚は昭和47年(1972年)に建立されたもので、寿司に使われる魚介類への感謝と供養の思いが込められています。

海老塚は翌年の昭和48年(1973年)に、天ぷら料理の関係者と「海老の大丸」によって建立されました。海老塚の左側には「海老の大丸」と刻まれた石碑もありました。

玉子塚は厚焼き玉子を製造する業者によって建立され、昆布塚は昆布への感謝と供養のために建てられたものです。

それぞれ石の形や大きさが異なり、魚介類だけでなく卵や昆布まで供養されていることに、築地の食文化の幅広さを感じました。

牛丼の吉野家ゆかりの記念碑|魚河岸とともに歩んだ歴史

境内を歩いていて意外だったのが、牛丼チェーンの吉野家に関する記念碑があったことです。

築地といえば魚市場の印象が強いため、なぜ牛丼の吉野家の碑があるのか、不思議に思いました。

吉野家は明治32年(1899年)、日本橋の魚河岸で創業しました。

大正12年(1923年)の関東大震災後、魚市場の移転に伴って、大正15年(1926年)に吉野家も築地へ移りました。

その後、東京大空襲で店舗が焼失しましたが、戦後は屋台で営業を再開。昭和34年(1959年)には築地市場内に「築地一号店」を開業しました。

当時の魚河岸では多くの人々が忙しく働いており、手早く食事ができる牛丼は、そうした人々の食事を支えていました。

つまり、吉野家は魚市場とともに日本橋から築地へ移り、魚河岸で働く人々と深い関わりを持ちながら発展してきたのです。

波除神社にある記念碑は、平成28年(2016年)8月31日に吉野家によって建立されました。

築地市場に店を構えてきた歴史と感謝の思いを後世に残すための記念碑で、石材には小松石が使われています。

魚介類の供養塚と牛丼の吉野家の記念碑が同じ境内にあるのも、築地という土地の歴史を知ると納得できます。

築地ホテル館の錦絵|魚市場ができる前の築地

さらに境内では、「築地ホテル館錦絵」と題された解説パネルと、当時の様子を描いた錦絵も見つけました。

築地ホテル館は、慶応4年(1868年)に完成した本格的な西洋式ホテルです。

築地に魚市場が開場したのは昭和10年(1935年)。それよりも約67年前に、この地域には外国人を迎えるための西洋式ホテルが建てられていたのです。

築地ホテル館の設計を手がけたのは、アメリカ人建築家のR・P・ブリジェンス。建設には、現在の清水建設につながる二代目・清水喜助が関わりました。

ホテルは洋風の外観を持ちながら、日本の伝統的な建築技術も取り入れた建物でした。客室のほか、当時としては珍しい設備も備えていたとされています。

しかし、明治5年(1872年)の銀座大火で焼失し、わずか数年でその姿を消しました。

境内に展示されていた錦絵には、築地ホテル館と周辺の街並みが描かれています。

解説によると、錦絵の右端には波除神社の社殿も描かれており、現在と社殿の位置や向きは同じものの、鳥居の位置と向きは異なっていたそうです。

当時の鳥居は現在の晴海通りの方向を向いていましたが、その後、築地市場の開場に合わせて現在の向きに建て直されました。

また、清水建設が所蔵する明治4年(1871年)の錦絵「東京築地ホテル館繁栄馬車往来之図」にも、築地ホテル館と波除稲荷社が描かれています。

現在の築地は魚市場の町という印象が強いものの、明治初期には西洋式ホテルが建ち、外国人を迎える場所でもありました。

境内の錦絵を見て、魚市場ができる以前の築地の姿を知ることができました。

枝垂れ銀杏の枝が覆いかぶさる築地・波除神社の鳥居
緑に囲まれた波除神社の社殿正面
斜めから見た厄除天井大獅子の大きな鼻と牙、金色の装飾
厄除天井大獅子の裏側に見える木製の構造と鼻の穴
赤い顔と金色の巻き毛を持つ波除神社のお歯黒獅子の全体像
お歯黒獅子の顔のアップと黒く塗られた歯
波除神社の境内にあるすし塚の石碑
波除神社の海老塚と隣に立つ海老の大丸の石碑
卵のような丸い形をした波除神社の玉子塚
黒っぽい自然石に昆布塚と刻まれた波除神社の供養塚
波除神社の境内に建立された牛丼チェーン吉野家ゆかりの記念碑
築地市場とともに歩んだ吉野家の感謝と歴史を伝える記念碑
波除神社に展示された築地ホテル館錦絵の解説パネル
波除神社に展示された明治初期の築地ホテル館と周辺の街並みを描いた錦絵
築地ホテル館と当時の街並みを描いた錦絵

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