東京都文京区本駒込にある駒込富士神社は、富士山に見立てた富士塚の上に社殿が建つ神社です。
江戸時代の富士信仰を今に伝える境内には、富士講の石碑が数多く残り、加賀前田家との歴史的なつながりもあります。
2026年10月31日に訪れ、富士塚の石段を登って参拝しました。境内の様子や石碑、駒込に伝わる「一富士二鷹三茄子」の話とともに紹介します。
駒込富士神社の大鳥居をくぐって境内へ
JR山手線・東京メトロ南北線の駒込駅から徒歩約12分。 文京区本駒込の住宅街にある駒込富士神社へ向かいました。
入口には「富士社」の扁額を掲げた大きな鳥居が建っています。鳥居をくぐると境内が広がり、奥には石段のある富士塚が見えました。
この日、境内で出会った参拝者は一人だけ。落ち着いた雰囲気のなか、ゆっくりと境内を見て回ることができました。
富士講の石碑が並ぶ駒込富士塚
境内の奥にある富士塚は、富士山を模して造られた小山です。正面には山頂へ続く石段が設けられ、その両側には大小さまざまな石碑が並んでいます。
石碑には「冨士山」や「北組」などの文字が刻まれ、富士講に関係する独特の印も見られました。
富士講とは、富士山を信仰する人々が集まって結成した講のことです。江戸時代には庶民の間で富士信仰が広まり、実際の富士山へ登拝するほか、身近な場所に築かれた富士塚を参拝する習慣も生まれました。
石段の周囲には黒っぽい岩が積まれ、ところどころに溶岩を思わせるごつごつした岩肌が見られます。
富士塚の斜面には「御胎内(おたいない)」と呼ばれる洞穴状の場所もありました。富士山の胎内洞穴を模したものとされ、岩に囲まれた入口には格子が設けられています。
また、石碑のなかには「加州」と刻まれたものもありました。加州は加賀国を指す呼び名です。神社には加賀前田家との歴史的な関係がありますが、この石碑の建立者や由来については確認できませんでした。
富士塚の石段を登り、山頂の社殿を参拝
正面の石段を登って山頂へ向かいました。
石段は比較的急で、両側には手すりが設けられています。登りきったところに社殿があり、ここで参拝しました。
社殿の右手へ少し下ると、鳥居を備えた小御嶽社と、曽我兄弟を祀る曽我御霊社がありました。
その先には、正面の急な石段とは別に、緩やかに下る道が続いています。この道は女坂と呼ばれています。
帰りは女坂ではなく、登ってきた正面の石段を下りました。上から見下ろすと登るとき以上に急に感じられ、足元を確かめながら慎重に下りました。
駒込富士神社の由緒と加賀前田家との関係
駒込富士神社の始まりは、天正元年(1573年)にさかのぼります。
文京区の資料によると、本郷村の名主が現在の東京大学の敷地にあたる場所へ、駿河国の富士浅間社を勧請したことが始まりとされています。
寛永5年(1628年)、加賀前田家がその土地を上屋敷として与えられることになり、浅間社は現在の本駒込へ移されました。
この移転が、駒込富士神社と加賀前田家との歴史的なつながりです。
前田家といえば、目黒区駒場に残る旧前田家本邸も知られています。ただし、駒込富士神社の移転に関係するのは江戸時代の本郷上屋敷であり、駒場の旧前田家本邸とは時代も場所も異なります。
富士神社は江戸時代の富士信仰の拠点の一つとなりました。現在も例年6月30日から7月2日にかけて富士神社例大祭が行われ、山開きの時期には多くの参拝者で賑わいます。
「一富士二鷹三茄子」と駒込ナス
駒込富士神社には、初夢の縁起物として知られる「一富士二鷹三茄子」にまつわる話もあります。
文京区の資料では、江戸時代の川柳「駒込は一富士二鷹三茄子」に登場する富士は駒込富士神社、鷹は近隣にあった鷹匠屋敷、茄子はこの地域で栽培されていた駒込茄子を指すと紹介されています。
駒込周辺は江戸時代、ナスの産地として知られ、駒込ナスは地域の名産品でした。
ただし、初夢のことわざ「一富士二鷹三茄子」の由来には複数の説があり、駒込との関係もその一つとされています。
富士塚を中心とした神社の歴史だけでなく、江戸時代の駒込の暮らしや地域の名産にもつながる話です。











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